旅行や出張といった長距離移動が簡単に叶う時代になりました。
しかし、どんなに移動手段が便利になり、移動時間が手軽になっても旅先での事故や病気の心配が無くなることはないでしょう。
それは今も昔も同じで、人々は長旅の安全を神に祈願するのです。
大阪市中央区にある『坐摩神社(いかすりじんじゃ)』は、旅行安全、住居守護、安産守護にご利益があると言われ、長い歴史のある神社です。
大阪メトロ『本町駅』の15番出口から西へ徒歩約3分。ビジネス街の中心に鎮座する坐摩神社は、ビルに囲まれながらも「こんな所に立派な神社があったのか」と声が漏れてしまうほどひっそりと厳かな空気を纏った神社です。
今回は大阪の人たちから長く愛されている坐摩神社の魅力を紹介します。
坐間神社のご利益と主祀神
坐間神社の語源では、居所知(いかしり)という「土地や家を守る」という意味合いの言葉が坐間(いかすり)に転じたものだといわれており、住む土地の安心・安全を願い、心地よい生活を目指した人々の願いが込められています。
鳥居は全国でも数が少ない「三ツ鳥居(三ノ輪鳥居)」の様式です。真ん中の大きな鳥居の両隣に、小さな鳥居が並んでいるのが特徴的です。
坐間神社のご利益
延長5年(972年)に作成された「延喜式神名帳」の宮中神の条に「座摩巫祭神五座」という項目があります。そこには坐摩神社の神である5柱が祀られ、それを総称して「坐摩神」と呼ぶことが記されています。
◇生井神 (いくゐのかみ)…生き生き、活発、快活の井水の神。古事記では孝安天皇とされています。
◇福井神 (さくいのかみ)…幸福や繁栄の井水の神。山陶神という陶器の神ともいわれています。
◇ 綱長井神 (つながいのかみ) …井戸から水を汲む際に使われる釣瓶(つるべ)を吊るす網が長いことを差し、深く清らかな井水の神。古事記では垂仁天皇とされています。
◇阿須波神 (あすはのかみ) …足場、地盤など人が地に足をつけて立つ足元を守る神。旅の神ともされています。
◇波比岐神 (はひきのかみ)…端引きという意味合いがあり、敷居のある住居や屋敷の神
坐間神は地元の人が安心して暮らしていくためのご利益をもたらします。
- 居住地を護る「住居守護」
- 旅の行路の安全を守る「旅行安全」
- 子孫繁栄と出産を護る「安産守護」
などがあり、祈願の神事も数多く行われています。
他にも「初宮まいり」、「七五三まいり」、「厄除け」、「商売繁昌」、「事業繁栄」、「安全祈願(工事安全、各種業務安全等)」、「除災招福(会社内での災難・災厄祓い)」があり、坐間神社が護る地で暮らす人や商売を営む人が祈願のために訪れています。
昔から商売や任務などの事情で旅をすることになった者が、坐間神が護る地に無事に帰れるよう、人々は祈願に訪れました。
万葉集には、防人となった人が遠い地で数年間の危険な任務の旅に出る際に坐間神に祈願したという歌が残されています。
『にはなかの 阿須波のかみに こしばさし
あれはいははむ かへりくまでに』
(萬葉集 4350)
坐間神社の歴史
女帝「神功皇后」と坐間神社の始まり
座間神社の始まりは神功皇后という1人の勇敢な女性が、長旅を経て帰還した際に坐間神を祀ったことが起源となっています。
神功皇后は戦前に教科書に乗っていた女帝。エピソードは数知れず、女性が身一つで戦地に乗り込む勇敢な姿は伝説として複数残されています。
かつて紙幣にもなった勇敢な女性「神功皇后」
1883年(明治16年)には神功皇后の肖像画が描かれた10円札紙幣が発行されました。
当時の大学卒業を経た際の初任給は10円程度(現代では20万程度)でした。現在では数多くの大学が存在しますが、明治30年までの期間で大学とは帝国大学のことを指しました。
そして大学に進学することは学力のみならず、官僚の息子といった家柄なども申し分なく、日本の最高位の国立高等教育機関で学ぶための品格も求められたのです。
この史実からしても、神功皇后が最高額の紙幣に選定されることは、大変価値が高い人物と考えられていたことがわかります。
神功皇后の三韓征伐伝説
神功皇后は仲哀天皇(ヤマトタケルノミコトの第二子)の妻でした。夫の旅にも同行するほど志高い皇后でしたが、紀伊国に滞在中「九州の熊襲(くまそ)という民族が反乱を起こしている」と報告が入りました。
夫の仲哀天皇はすぐに制裁せんとばかりに憤り、熊襲に兵を率いて向かう準備を始めます。
しかしこの時、神功皇后は「打つべきは熊襲ではない、朝鮮半島の新羅(しらぎ)である」と神からのお告げを聞いたといわれています。
神功皇后はすぐに夫の仲哀天皇にお告げのことを申し出ましたが、「私の実力で反乱の一つも治められぬわけがない」と疑い、熊襲に立ち向かいますがあえなく返り討ちにあい崩御しました。
悲しんだ神功皇后でしたが、一念発起し妊娠中で臨月の身でありながらも角髪を結い上げ男装し、自ら軍を率いて朝鮮半島にある新羅に攻め入ることにしたのです。
産気を落ち着かせるために腰に石を下げて身体を冷やし、自ら出産時期を遅らせたという話も残っています。
神功皇后が新羅に向かう船は山に登るごとく勢いのあるもので、魚の大群が進行を促したとも記されています。
さて、神功皇后の率いる軍にはいくつかの決まり事や志がありました。
それは婦女暴行や略奪、敵前逃亡を禁じるというもので、女性ならではの「雄々しさ」「勇敢さ」など精神的な強さが求められるものでした。
日本列島を出航し、無事に朝鮮大陸に上陸した神功皇后。新羅の王は勢いよく攻め入る神功皇后の軍を見て「日本という神々の国が東の方にあると聞いた」とし、白旗を上げたといいます。
新羅の降伏を聞いた隣接する国の高句麗(こぐりょ、またはこうくり)と百済(くだら・または、ひゃくさい)の国も相次いで降伏し、貢物を献上することを誓いました。
朝鮮半島の三国を制したことは「三韓征伐」と言われ、驚くべき功績の伝説として語り継がれていきました。
帰還した皇后が選んだ御神紋「シラサギ」
三韓征伐から帰還した神功皇后は、現在の天満橋周辺の淀川河口の地に坐間神を祀りました。これが坐間神社の起源とされています。
天満橋には白いサギが多く集まる場所だったということもあり、坐間神を置く場所に選んだといいます。このことから、坐間神社の御神紋は鷺丸(さぎまる)とされており、古来から由緒ある御神紋です。
坐間神社の御朱印帳は赤い日の出と共にシラサギが飛び立つデザインで、縁起のよさが感じられます。
そして、様神社境内では夏には御神花として「さぎ草」が植えられます。さぎ草は2~3㎝程の小さな花ですが、まるでシラサギがヒラヒラと舞っているような白い花をさかせます。
さぎ草は「暁」、「輝き」、「銀河」、「光」、「十五夜」など、光そのもの且つ生命力あふれる名前がつけられ、約60鉢が展示されます。
また、6月ごろにはシラサギの他にも神職の手によって、境内に植えられた約300株、30種に及ぶ紫陽花が並び、参拝の経路も華やかに彩られます。
坐間神社のお守りと御朱印
坐間神社と摂社の陶器神社のお守り・お札・御朱印は同じ社務所でいただけます。
坐間神社の安産祈願
神功皇后が無事に出産できた話もあり、安産の御利益があるとされている坐間神社では安産祈願も受け付けています。
昨今では坐間神社で安産祈願をした参拝者には「岩田帯」に加え「腹帯」も授けられます。
腹帯は簡単に着脱できるようマジックテープで仮止めできる工夫がされており、生地も丈夫で伸縮性のあるバイアステープが使用されているとのこと。
無事の出産に向け、縁起の良いマタニティグッズを持っておくだけでも心強いですね。
御朱印
坐間神社の御朱印はシラサギの神紋と「摂津国一宮」の印が捺されているデザイン。
坐間神社は絵馬と同じ柄のサギが飛び立つ縁起の良い表紙のオリジナル御朱印帳(1200円)もあります。
坐間神社の祭り
坐間神社の夏祭りは圧巻の「御神事太鼓」にあり
坐間神社の祭りは7月に行われ、中でも奉納太鼓は圧巻です。
輪島市無形文化財「御神事太鼓」による般若や翁、鬼の面をつけ、髪を振り乱し、唸り声をあげ舞を踊り、笛の音とともに響く太鼓の音は迫力があります。
見物客からも感嘆の声と拍手が度々湧きあがり、厳かな空気間のある神事です。
本町の商人たちが祈願する神とせともの祭り
坐間神社のある久太郎町は陶器などの物づくりも盛んなため、末社には『陶器神社』と、商売繁盛を願う『稲荷神社』があります。
陶器神社は防火陶器神社とも呼ばれており、周辺の陶器問屋の守護神として祀られています。
陶器は耐熱性く、燃えにくいことから火除けになると考えられていたため、陶器神社では『防火の神』とされているのです。
陶器神社にある灯篭は藍色の染付ものが美しい陶器でできており、その大きさや柄の繊細さが訪れる人を驚かせます。
陶器神社では坐摩神社の夏祭りと同時にせともの祭りが実施されています。
「大阪せともの祭り」の愛称で知られ、使わなくなった陶器供養と夏祭りで毎年賑わいを見せています。せともの祭りは大阪市指定無形民俗文化財にも指定され、職人や業者が商売道具である陶器に感謝の意を伝えます。
そして、坐間神社の境内の狛犬は陶器でできています。赤褐色でツヤがあり、すらりとしたシルエットが特徴的です。陶器でできていることから、奉納した職人の陶器神への敬意が感じられます。
坐摩神社が鎮座する商人の町「船場」
ヒト、モノの生産と流通が盛んな町
坐摩神社のある大阪市中央区の久太郎町は商人の街と言われており、江戸時代以降は「天下の台所」と呼ばれるほど繁栄し、多くの人たちが出入りした商業地帯です。
本町は卸問屋が集まる町とされており、昔からの名残を感じることができます。デパートのそごうができるなど、特に古着屋が有名で「坐間の前の古手屋」と名がつくほど有名で、上方落語の中でも坐間神社周辺の賑わいを示す作品が残っています。
人々が物を作り、売り、言葉を交わして活き活き生活できるのは、坐間神の御利益があるからと考える地元の人も少なくありません。
休日には多くの親族が集まり、お宮参りをする家族の姿も複数見受けられます。
坐間神社周辺は渡辺姓のルーツ
坐間神社の住所は「久太郎町」や「渡辺」といった人の名前のような地名です。
かつて坐間神社は神功皇后によって「渡辺津」という旧淀川河口に建立されましたが、その後は神社と氏子が現在の地に移転してきました。
江戸時代には北渡辺や南渡辺という町名がついていましたが、1930年(昭和5年)には統合され「渡辺町」となりました。そして時代が流れ、区の統合を考慮した際に渡辺町が消えることになる話が浮き上がったのです。
渡辺姓の人たちは自らのルーツが消えることで「全国渡辺会」を立ち上げ反対運動を起こしました。市はこの運動に根負けし丁目以降に渡辺の地名を残すことになったのです。
こうして坐間神社周辺の住所では「中央区 久太郎町 四丁目1番~3番、渡辺」の順で街区符号が設定されています。
渡辺姓といえば、平安時代のブームとなった源氏物語の主人公「光源氏」のモデル、鬼退治で有名な渡辺綱(わたなべのつな)もこの渡辺の地に住み、気に入ったことから渡辺を苗字として名乗るようになったと言われています。
また、「久太郎」のルーツは、渡辺津がかつて難波宮や難波京があった時代の港湾を使っていたことから始まります。
渡辺津に着いた船から降り立つのは、農耕技術や鉄を使用した工具の知識・技術を携え、その技術を伝えに来た百済人が多かったそうです。
所説はありますが、百済人が多く住んでいたことから町になり、くだらという言葉が転じて「くた」の部分から「久太郎町」になったという話が残されています。
文化の発展した国からやってきたたくさんの渡来人が技術を伝達したことにより、物の品質や効率的な生産性が上がったため、物を売る町として栄えたのでしょう。
坐間神社周辺で住居を構え、住んでいる町や人のルーツも坐間神社に護られて来たと考えるとロマンがあります。
さいごに
本町駅からはほど近く、坐間神社正面の入口にはスロープもついており、車いすやベビーカーを使用する方でも訪れやすい神社でした。
坐間神社を初めて訪れる人は、その場所と規模や境内と外の空気間の違いに驚く声もよく聞かれます。
実際に私が訪れた際にも、高速道路や工場が付近にあるとは思えないほど広々としたコンクリート造りの境内に、しんとした静けさが広がる空間は何か目には見えない境界を感じることができました。
旅の神様というのは全国でも珍しい御利益だと思います。
自身の旅のみならず、大切な人の帰還を願う人に寄り添った坐間神社に祈願することで心配や不安も緩和することでしょう。