(画像は一の鳥居)
阪急梅田駅から約20分の場所にある静かな森
大阪府の大都会の中に佇む吹田市垂水町に鎮座する小さな森があるのはご存知でしょうか。
垂水の森にある垂水神社は阪急千里線・豊津駅から北西へ約600m(徒歩約10分)、Osaka Metro御堂筋線、北大阪急行電鉄南北線・江坂駅から約1.3km(徒歩約20分)の小高い場所にある神社です。
今も現地の人々から信仰が深いこの神社は、ペットの同伴も硬く禁止されている厳かな場所。
手入れされた境内は、大阪の喧騒から離れて自然が感じられる癒しスポットです。
車での参拝も可能です。駐車場は一の鳥居の隣に設けられています。
(画像は駐車場)
垂水神社のご利益と神様
(画像は神社拝殿)
勝負事・起業・厄払いなどにご利益をもたらす神様
主祭神の豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)は、古代日本の皇族の祟神天皇の第一皇子でした。日本書紀にも豊城命や豊木入日子命といった名前で登場します。
祟神天皇は第一皇子である豊城入彦命と、腹違いの弟の活目尊(イクメノミコト)のどちらを後継者にするのかを決めかね、夢占いの結果で判断することにしました。
夢の結果は兄の豊城入彦命は奈良の三輪山に登り東に向かって槍や刀を振りかざす夢を、弟の活目尊は同じ三輪山で四方に罠を張って雀を追い払う夢を見たというものでした。
この結果から、兄の豊城入彦命には東方面を治めるため派遣し、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)や桃太郎のモデルとなった吉備津彦命(キビツヒコノミコト)たちと肩を並べて国を納めていったことから、勝負運や運気上昇、企業成就、厄払いなどのご利益をもたらすと言われています。
豊城入彦命が東に向かい最初に開拓したのが垂水の地とされていると言われていることから、子孫たちが祖神として祀りました。
神事・行事
垂水神社では、一年を通じて数多くの神事が厳かに行われています。
定例のものから臨時のもの、四季にあわせたものなど様々なお祭りが行われます。
毎月1日には月首祭、8日には不同社にて護摩焚きといったように毎週のように行われており、ほとんどのお祭りは公開されています。
出張祭典も行っており、新築の家を建てる際の地鎮祭、事務所開きなどでその場所で祈願が行われます。
本殿・拝殿までの一の鳥居・二の鳥居
(画像は二の鳥居)
閑静な住宅街を抜けたところにあるこの神社は、表参道から一の鳥居があります。
本殿までは100m以上あり、参道の両サイドはギリギリまで住宅という地域住民との密着度です。
松の木や燈籠が趣深い風景で、お祭りのときは屋台がぎっしりと出展されます。
その奥に進むとご神木があり、その側の石段を登ったところに二の鳥居と拝殿が現れます。
鎮守の森に守られている皇太社、祓戸社、戎社など
(各祠の傍は広場になっており、鎮守の森に包まれています。この広場で神事や子どもたちの祭りの練習もおこなわれます。)
皇太社
皇太社に祀られている神様は、最初に日本を生み出した「国生みの神」「神生みの神」とされているどの神々より古く、伊勢神宮と同じ神です。
伊佐那岐命(イザナギノミコト)、伊佐那美命(イザナミノミコト)、天照大神(アマテラスノオオミカミ)が祀られています。
祓戸社
祓戸社には祓戸大神(ハラエドノオオカミ)である四神を祀っています。
祓戸大神という神様は祝詞の中で登場するため、古事記や日本書紀といった記紀には登場しません。
四神にはそれぞれ役割があり、祝詞を唱えて様々な厄を落とすことで厄払いの神事にも登場します。
戎(稲生)社
鉱山の神様と、食物の神を祀っています。1月10日には十日戎の祭事が行われ、縁起の良い福笹などを求めて多くの人が訪れます。
他にも境内には楠明神社、三輪社、高昇社、政髙社があり、多くの神様を祀っています。
これらの祠がある広場からは、垂水の町が一望できます。
(皇太社や皇太社がある場所から垂水の町が見下ろせます。)
垂水神社の伝説・歴史
垂水神社は、927年にまとめられた『延喜式神名帳』にも記載されている由緒ある神社で、神社の起源となる時期から鎮座する非常に長い歴史のある神社です。
昭和48年から51年にかけて周辺や神社境内には弥生時代に使われていた竪穴式住居跡や焼土坑などが見つかり、この地は約2000年前から人々が住んでいたことがわかりました。
計り知れない長い歴史の中で、氏子をはじめとする崇拝者一人ひとりの一生が現在の緑豊かで神聖な垂水の領域を築いてきました。
吹田三名水の一つ、垂水の瀧
干ばつから都の人々を救った垂水の瀧
645年〜654年頃、孝徳天皇の御代に干ばつがあり、人々の暮らしは脅かされていました。多くの人が集まっていた当時の都、難波長柄豊碕宮(以下、難波宮)も例外ではありませんでした。
難波宮があったとされる上町台地と垂水神社はほぼ南北の位置、直線状であることもあり、距離にしては約15㎞程だったので難波宮から瀧が見えていたと考えられています。
豊城入彦命の子孫であった阿利真公(ありまのきみ)は、垂水の湧き出る水を難波宮まで高樋を通し、水を送ったのです。高樋は明治時代まで確認されています。
当時は今以上に湧き出る水が多く、都に送るだけの水量があり、多くの人の生活を支えることになりました。
都の人々の生活を助けた阿利真公はこの功績が認められ、「垂水公」の氏姓を与えられ、垂水神社を創始したと言われています。
今もなお枯れることなく湧き出る水は、奇跡とも神威とも言われています
崖から流れ落ちる水・小瀧と本瀧
(現在の小滝)
垂水神社は現在の豊中市、吹田市、茨木市、箕面市にまたがる千里丘陵という丘陵地の南端にあり、その中でも湧き水に恵まれていたことから水の神様として信仰されていました。
垂水とは、古い言葉で「滝」を意味する言葉ですが、勢いよく高い場所からたくさんの水が流れ落ちるのではなく、崖の隙間から湧き水が流れ出るものをさしています。
吹田の湧き水は「垂水の瀧」、「泉殿宮(いづどのぐう)の湧き水」、眼病に効果があるとされた「佐井の清水」という三大名水と呼ばれていました(※現在「佐井の清水」はほとんど湧き出ていません)。
津くよみの池と万葉歌碑
垂水の瀧の小瀧と本瀧の間にある津くよみの池のそばに歌碑があります。
この歌碑には、大化の改新を行った天智天皇(中大兄皇子)の7人目の息子で、文化人であった志貴皇子が垂水の瀧を訪れた際に詠んだ歌が刻まれています。
―石激 垂見之上乃 左和良妣乃
毛要出春尓 成来鴨―
現代語訳すると、
―石走る 垂水の上の さわらびの
萌え出づる春に なりにける鴨―
この歌の意味は、
「雪解け水でかさを増した瀧の水しぶきが岩の上を激しく流れている。
滝のほとりには芽吹いたばかりのわらびがみられ、春になったなぁ」
というように、当時から垂水の豊潤な大地が感じられます。
垂水の地は田んぼには適している土地であるため、動植物や人が豊かに暮らすには申し分ない場所です。
現在も江坂駅、豊津駅の間に小さな田んぼが複数あり、豊作の祈祷と田植えを経て夏頃にはカエルの鳴き声が聞こえるなど、大阪の喧噪から離れた豊かな自然が感じられます。
津くよみの池には鯉や亀が飼育されており、風情ある風景が楽しめます。
本瀧
本滝は津くよみの滝の奥にあります。瀧の側に行くためには、備え付けされたサンダルに履き替え、拝礼してから進みます。
瀧までの道は水で滴った状態なので滑らないように気をつけて進みます。
また、岩に囲まれているため、日が落ちた際はかなり足場が暗くなるため明るい時間帯に訪れることをおすすめします。
瀧付近まで近づくと、虫が飛び交い蜂やアブも居たので苦手な方は虫のシーズンをさけるのがよいかもしれません。
不動明王が祀られている下の筒から少しずつ流れる本瀧は、自然水のため飲料水の検査は受けていませんので、飲料目的は自己責任となります。
垂水の瀧周辺は水と木々の木漏れ日があり、夏場でも爽やかな涼しさを感じることができました。
やんわりと吹く風と、セミの鳴き声、鳥が枝から枝に飛ぶ羽音、トカゲが土に潜り込む音だけが響き、日々の忙しさからは感じられない癒しを与えてくれます。
「キジも鳴かずば撃たれまい」雉子畷伝説の伝承地
垂水神社周辺に伝わる悲話
駅から住宅地の中にある垂水神社の周辺は、水にまつわる文化や深い自然があった名残がある部分もあり見どころです。
豊津駅から垂水神社に向かうまでの道に「雉子鳴き道」という場所を通って参拝に向かうことができます。
垂水の人柱伝説
阪急豊津駅から垂水神社に向かう途中の閑静な住宅街に、ひっそりと佇む「雉子畷碑」があります。
水が豊かな土地であっても、すべてが順風満帆で事が進むことではありません。
そこに残された悲話をご紹介します。
琵琶湖から流れる一級河川「淀川」。淀川水系全体の支川数は日本でも最も多いと言われています。
淀川を横断するために長柄橋(ながえばし)は、「浪速の名橋50選」にも選ばれており、現代の大阪の人々の生活にも欠かせない橋です。
時代に合わせて何度も造り替えられてきたこの長柄橋も歴史が長く、この垂水の地に住んでいた人々と所縁がありました。
「鳴かずば雉も射られず」、「雉も鳴かずば撃たれまい」ということわざを聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。
雉が鳴くことで居場所を知られ狩人に撃たれたことから、無用な発言をしたことで自ら災いを招く意味で使われる言葉です。
人柱に選定された垂水長者の一言
853年頃、まだ橋の建設技術が発達していないその時代は、暴れ川とも言われた淀川の氾濫が度々起こり、農作物は流され、苦しい暮らしを強いられていました。
繰り返す水害で川幅はどんどん広まり、政治の弱体と共に架橋工事は困難を極め、ついには人々は人柱を立てる必要性を感じていました。
人柱とは災害や人災などで橋や堤防、城などの大規模建設が難しくなった際に、生きた人間を水中や土中に埋めることで神に供え、工事の振興を祈願する古い風習です。
役人は、当時の垂水村の長者だった巌氏(いわうじ)に、人柱のことを相談しました。
巌氏の考えはこれまでの技術で工事を進めるのではなく、柱脚部を補強する「袴継ぎ」という技術に着目していました。
袴継ぎにちなみ、巌氏はこういいました。
「架橋にはやはり人柱が必要だ。袴に継ぎの当たった人を柱にするのがよいでしょう」
巌氏がそう言うと、役人は当の巌氏が継ぎが当たった袴をはいているのに気が付きました。
役人は巌氏の意向に同意し、巌氏本人を人柱にすることに決めたのです。
巌氏は長柄橋の柱に括られ人柱となりました。
それからというもの、工事は順調に進み橋も破損することがなくなったといいます。
巌氏の愛娘の一言が伝承に
人柱に選定された巌氏には照日(テルヒ)という愛娘がいました。北河内に嫁いだ身でしたが、父親が人柱になったと聞いた時に大きなショックを受け、しばらくの間泣き続けました。
そしてある日を境に照日はピタッと鳴くのをやめ、それからは貝のように口を閉ざしたまま一言も声を発さななくなったのです。
長い月日が経っても一言も話さない妻に困り果てた夫は、妻を垂水の実家に返すことにしました。
垂水周辺に戻ってきた夕暮れ、一匹の雉が鳴き声を上げて飛び立った時です。夫は素早くその雉を射落としました。
自慢げな顔をしている夫をよそに、射落とされた雉を見た照日は重い口を開き、次のような詩を詠んだそうです。
―ものいわじ 父は長柄の橋柱
鳴かずば雉も 射られざらまじ―
射落とされた雉を見て人柱となった父親を思い出した照日の悲しみが分かった夫は、射落とした雉を手厚く葬り、来た道を妻と辿り北河内まで帰って仲良く暮らしたそうです。
信州にも非常によく似た伝承が残されていますが、この「長柄の人柱」の話は大阪では有名な話です。
吹田市に隣接する東淀川区にある大願寺には、長柄橋の柱の一部を用いて地蔵尊を作り、材木などを寺宝として保管されています。
さいごに
梅田から一歩外に出ただけで自然を感じる癒しスポットは、騒がしい毎日から離れたい時に人の心を潤してくれます。
しかし、人が生きる環境により、歴史ある部分の殆どが人が住むに改築されていっています。
喧噪的な環境に疲れた時、時鎮守の森、滝の音でリフレッシュしたい時に足を運ぶのもよいかもしれませんね。
もちろん垂水の神様や美しさを保つ氏子の方々にも、感謝の気持ちを忘れず訪れたいものです。