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(石切さん)石切劔箭神社病気平癒を願って、お百度参りする人の絶えない場所

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石切劔箭神社

近鉄奈良線の生駒トンネルに入る手前に、大阪府側最後の駅として石切駅があります。その山麓の駅から西に向かって参道を15分ほど下った所に、石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)があります。
この神社は通称石切神社で、また親しみを込めて石切さんとも呼ばれています。その参道商店街の独特な雰囲気を楽しみながら、お参りする方が絶えない神社です。
その一方で、昔からデンボの神様として有名で、現在では転じて癌等の重篤な病気の平癒を願って、真剣にお百度参りをする人の絶えない神社でもあります。本記事では、この石切さんについてまとめてみたいと思います。

石切神社の由緒と主祭神とご利益

石切神社の主祭神

石切神社の由縁

石切神社の正確な歴史は、足利時代の末に社殿が焼失した事から、一部不明な点もありますが、各種の文献等から神武天皇紀元2年に上之社が建てられ、崇神天皇(第10代天皇で、実在した初めての天皇と言う説もあります)の時代に下之社として、現在の本社である石切神社が祀られたとされています。

この石切神社の祭祀は木積氏が代々勤めて来ましたが、木積の姓は、本来は穂積で、この穂積は饒速日尊(にぎはやひのみこと)の第7代に当たる伊香色雄命(いかがしこをのみこと)が初めてこの姓を名のられたとされています。
そしてこの穂積氏は物部氏の一統として大和を中心に勢力を拡大していきました。

この先祖として、饒速日尊とその御子である可美真手命(うましまでのみこと)の二祭神を祀り、石切神社が創祀されたのです。

饒速日尊(にぎはやひのみこと)

饒速日尊は天照大神の孫に当たり、天孫降臨の神話で有名な瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御兄とされる神様です。

この饒速日尊は天照大神から「十種の瑞宝(かんだから)」を授かり、大和の国を治めるために神々の住む高天原からこの地に降り立ったとされています。
またこの時に、饒速日尊は「布都御魂剣(ふつのみたまのけん)」と、自分が天孫であることを証明する「天羽々矢(あまのははや)」を携えて降臨されました。
境内にある絵馬殿の屋根の上には、これを象徴するように金色に輝く「剣」と「矢」が天に向い立っています。

さらに饒速日尊という御神名は「徳が高く広く活発で勇猛であらせられた」という意味を持っており、その名の通り大和地方に居た先人を平らげ、神武天皇の大和国建国を助けられたのです。

可美真手命(うましまでのみこと)

可美真手命は饒速日尊の御子神で、父の跡を継いで、大和の治世に尽力され、物部一族を率いて神武天皇の親衛に勤められました。
また可美真手命は、十種の神宝を使ったまじないの神法で多くの人々を救済されました。
可美真手命には「ご立派な御徳を有されたお方」という意味があり、勇猛であるだけでなく、人々を思い救済する徳を持たれた神様なのです。

石切神社のご利益

石切神社の正式名である石切劔箭神社の、石切劔箭の名前は「御神威が、強固な岩をも切り裂き、貫き通すほど偉大である」という意味です。
この鋭い刃物の威力で、腫れ物を治してもらえるとの信仰が伝えられ、石切神社は「デンボの神様」として、関西地方では昔から親しまれてきました。
デンボは関西弁で腫れ物の事ですが、現代では腫れ物が転じて癌や腫瘍など重篤な病を治すと考えられています。

お百度参り

お百度参り

多くの神社には、お百度石が設けられており、この石を廻ってお百度参りが出来る様になっています。しかし、実際にお百度参りをされているのをご覧になった方は、少ないのではないでしょうか。

しかしこの石切神社では、本殿前と三の鳥居の近くにある2つのお百度石を往復し、祈願される方が絶えません。
一度お参りするたびに、お百度紐を一本ずつ折りながらお百度参りされる方が、常に10~20名も居られるのです。

真夏の暑い日には、神社側が熱中症にならぬように、「お百度は厳密な意味での100回でなく、多くと言う意味なので、自分の体力を考えて無理をしない様に!」と注意喚起されるほどです。

家族等の重篤な病の平癒を願い、長年に渡り、この光景が絶えない神社なのです。これも
石切神社のご利益の強さを表していると言えるでしょう。

境内にあるお社と祀られている神々

本殿に祀られるご祭神だけでも十分にご利益の得られるパワーある神社ですが、それほど広くもない境内ですが、その他のお社も沢山あります。次にこれらのお社を紹介します。

神武社

神武社

神武社の御祭神は、神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)で、この神様は神武天皇とされています。

神武天皇が石切神社の主祭神である饒速日尊や可美真手命の助けを借りて、大和の国に入られますが、その時には大和に先住する人々から激しい抵抗にあい、大変苦労されたと伝えられています。

そんなある時、現在の石切である高庭白庭の丘にて、高天原の神々に戦勝を祈願されました。その際に、かたわらの巨石を蹴り上げ、武運を占われたと伝えられています。
この話の神武天皇が蹴上げられた石として伝わる巨石を、御霊代としてお祀りしてあるお社で、武運の神様としての信仰を集めています。

五社明神社

五社明神社

五社明神社には、恵比須大神・大国主大神・住吉大神・稲荷大神・八幡大神の五柱の神様が祀られています。いずれも皆さんが良くご存知の神様です。
ご利益は商売繁盛・大漁成就・産業隆盛で、特に商売を営まれている方々の厚い信仰を集めています。

水神社

水神社

ご祭神は罔象女神(みつはのめのかみ)と天水分神(あめのみくまりのかみ)の二神です。
この二神は水を司る神様で、稲作に不可欠な適度な雨を祈願して、祈雨祈晴を願う人達の
お参りが絶えないお社でした。

また天水分神の「みくまり」が「みこもり(御子守)」に通じることから、安産・子育ての神様としても多くの人の信仰を集めています。近年は、このご利益を求めてお参りされる方も少なくありません。

以上の神武社・五社明神社・水神社のお社は、三の鳥居をくぐって、境内に入った所にあります。

穂積神霊社

穂積神霊社

これから紹介する穂積神霊社・一願成霊尊・穂積地蔵尊・乾明神社の4つのお社は、本殿とその右手にある祈祷受付・授与所の建物とを繋ぐ橋を潜った奥にあり、少し場所が分かりにくいですが、ご利益を求めてお参りされると良いでしょう。

穂積神霊社は明治初期に当時の宮司が郷学校として開設した穂積堂がその起源です。この穂積堂は残念ですが、昭和45年に焼失してしまいます。
しかし、後年に穂積堂に祀られていた御神霊を穂積神霊社として、新たにお祀りされたのが、このお社です。
病魔災難除けや、学問向上にご利益があるとされています。

一願成霊尊

一願成霊尊

一願成霊尊は、一生に一度だけの願い事を叶えてくださると言われる神様をお祀りするお社です。一生に一度の願いなら、どんなご利益も期待できるのです。

穂積地蔵尊

石切劔箭神社にはかつて神宮寺として天台宗の法通寺があり、神社と共に栄えていました。残念ながら、この法通寺は室町時代に兵火により焼失しました。

後年になり、この法通寺に安置され、多くの信仰を集めたと伝えられる地蔵尊四体を、この穂積地蔵尊のお堂に安置されたものです。
安置されているのが地蔵尊であり、子供の成長を祈願するのに良いお堂と言えます。

乾明神社

乾明神社

乾明神社の御祭神は、應𢶜乾幸護(おうよういぬいさぢもり)大明神です。この聞きなれない應𢶜乾幸護大明神は、江戸時代の中期に飢餓と重税に苦しむ農民の為に直訴して処刑された人望の厚い庄屋を、後年に代官の小堀家により神として祀られたものです。

この庄屋は学問に優れ、色々な難問を解決された方で、その人徳から神となった後もお参りが絶えない神様でした。
人徳の向上を願うには、最適なお社と言えます。

境内のその他の見どころ

本殿や色々なお社以外には、下記の様な見どころもあります。

絵馬殿

絵馬殿

近鉄奈良線の石切駅から参道商店街を下って石切神社に着くと、三の鳥居から神社の境内にすぐに入る事になります。
しかし石切神社の巨大な鉄製の一の鳥居・二の鳥居は、そこから少し先の南側にあります。この2つの鳥居と三の鳥居の間に立派な絵馬殿があります。

巨大な木造の絵馬殿の両脇には、石切神社の象徴でもある劔を持つ神像が祀られています。
そして緑青がふいたと思われる銅瓦葺きの青緑の屋根には、天を突くように金色に輝く剣と弓矢が立っています。
まさに石切神社の霊験あらたかで、力強いご利益を感じる事が出来るものです。三の鳥居から境内に入られた方も、帰路には立ち寄り、その素晴らしい姿を鑑賞されるのがお勧めです。

親子連牛像

親子連牛像

絵馬殿の左手には、親子の牛の像があります。これは説明書きに農耕・運搬に励んでくれる牛の労をたたえて、献牛祭りを執り行い、この像を設置したとあります。
今では牛が農耕に使われる事はありませんが、五穀豊穣・商売繁盛を祈願して、この像が寄贈されたものと思われます。

神馬像と神馬

神馬像

境内の水神社の北側に、神馬像が立っています。神馬像は神社では時々見ますが、ここの神馬像は非常にリアルなものです。
説明書きによると、名前は「イシキリツルギヤ号」と言うサラブレッドの牝馬で、元競走馬で、引退後には石切神社の神馬として活躍した馬だと言う事です。
馬主が熱心な石切神社の崇敬者であった事から、馬に神社の名前を付け、さらに引退後には石切神社の神馬として奉納されたのです。その馬を模ったのが、この神馬像です。

石切神社には、実際に2~3頭の神馬が奉納され、厩舎や馬場で専属職員により飼育・調教されており、8月に行われる夏祭りで神輿と共に行列に参加するなど、活躍しています。

庭園(神苑)

庭園(神苑)

本殿や祈祷受付・授与所の東側に、水の流れる庭園があります。この庭園は、比較的最近になり造営されたものですが、大阪府内のこの規模の境内の神社に、神苑としての庭園がある事は珍しく、一見の価値があると言えます。

石切神社に収蔵されている日本刀

石切神社の正式名である石切劔箭神社の「劔」は剣の異体字であり、「箭」は竹製の矢を意味する文字です。
このように、石切神社は剣=日本刀との関係の深い神社と言えます。宝物館には多くの日本刀が収蔵されており、春と秋に行われる宝物館の一般公開時には、刀剣ファンが多数訪れるとの事です。

特に太刀の「石切丸」と「小狐丸」は美術品としても一級品と称されるものですが、この両刀剣は由緒ある刀剣である可能性もあるものです。

「石切丸」と言う銘は、平治物語に源義平が使用していたと書かれている銘と同一です。石切神社所蔵の「石切丸」がこれと同一かは確定されていませんが、その可能性が高いとされています。

また「小狐丸」の方は、刻まれている銘が「宗近」で、これは一条天皇の命を受けた三条宗近が、狐の相槌で太刀を鍛えたと言う逸話に符合します。
現在この逸話に出て来る名刀「小狐丸」は行方不明であり、石切神社所蔵の太刀が、もしかすれば、この名刀である可能性も否定できません。
普段、石切神社を訪れても見る事は出来ませんが、興味がある方は一般公開時に鑑賞されると良いでしょう。

石切神社参道商店街

石切神社参道商店街

石切参道商店街は、近鉄奈良線石切駅より石切神社に至る参道に、百数十店に及ぶ飲食店・食品・衣料品・日用品や多くの占いの店や漢方薬店が建ち並び、さらに所々に小さな祠が点在し、独特な雰囲気を醸し出しています。

参拝者には比較的高齢者が多い事から、他では見る事の出来ない様々な昔風の日用品も販売されており、散策するだけで楽しくなる様な所です。この散策を楽しみに石切さんにお参りされる方も少なくありません。
またその独特な雰囲気から、関西のローカルテレビ局では、頻繁に取り上げられ、よくロケが行われる所でもあります。

石切神社上之社

石切神社上之社

石切神社上之社は、由来でも記載した様に、石切神社発祥の地です。社伝では、2600余年も前の神武天皇2年に創祀されたものです。
この石切劔箭神社上之宮は、1907年(明治40年)に下之社に合祀され、跡地は奥の院と称して記念の石碑のみとなっていました。
しかし1972年(昭和47年)になり、上之宮社として再興され、現在に至っています。いわゆる石切神社の下之社が参拝者で賑わっているのと好対照に、ひっそりと山の中腹に鎮座されています。

この上之宮社は、下之社に向かって参道商店街を下る所から、逆に近鉄奈良線のガードを潜って真っすぐに東に10分ほど山を登った所にあります。
健脚の方は、一度訪れられると良いでしょう。なお両社をお参りされる方は、上之宮社を先に参りし、その後に下之社にお参りされると良いでしょう。

まとめ

石切神社は重篤な病の平癒を願い、お百度参りをする人の絶えない神社です。石をも切り裂くご祭神の強いパワーにあやかろうと考える人の信仰を集める神社と言えます。
また境内には、いくつものお社に神々が祀られ、どんな祈願も聞き入れてもらえる神社でもあると言えます。

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