神社・仏閣 PR

高津宮の御朱印レポ!大阪の縁結び・縁切りの相合坂で上方文化を満喫!

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

憧れの神社婚、出会いは神社の縁結びパーティー

「出会いは婚活」が主流になりつつある現代、市場では神社での婚活イベントが話題になっているのはご存知でしょうか。

大阪市中央区に鎮座する「高津宮(高津神社)」では、縁結びに御利益があるといわれており、良縁のパワースポットや境内での縁結びイベントが行われていることで注目されています。

地下鉄大阪メトロ谷町線の「谷町九丁目駅」から徒歩5分

縁結び、芸能などで古くからご利益があるとされる、大阪の由緒正しい「お宮さん」とも呼ばれる高津宮に行ってみました。

高津宮(高津神社)のご利益

高津宮のご利益は、縁結び、子宝、安産、平穏安寧の神様が祀られおり、摂社では学業成就、合格祈願、五穀豊穣や商売繁盛の神様が祀られています。

多くの心願成就に人々が絶えず参拝に来る高津宮ですが、中でも縁結びに関してはカップルの相性を試したり悪い縁を断つことで有名な「坂」があります。

高津宮2

恋愛パワースポット「相合坂」と「縁切り坂」で良縁を願う

高津宮は周辺よりも高い場所に鎮座しており、参拝するには上に上らなければいけません。
多方面に設置されている石段を上って行きますが、この階段こそ高津宮の縁結びスポットのひとつなのです。

縁切り坂の名を持つ「西坂」

高津宮3
表参道、北坂、西坂、相合坂という4つの坂がありますが、この中の西坂は悪縁から切り離す「縁切り坂」と言われています。

縁切り坂は、明治初期ごろまで三曲がりになっており、曲がるたびに縁が切れていくということで地元の庶民たちの間では「夫婦・恋人との悪縁を絶つ」という意味で信仰されてきました。

坂と言っても、古くから整備されてきたこともあり、今では階段状になっています。
階段を下る入口には石の鳥居があり、下る時には身が引き締まる思いをするでしょう。

悪い人間関係を絶ち、良い関係を築きたいと思う人は帰る際にこの西坂から下りるのがよいとされています。

相合坂(あいおいざか)

高津宮4
西坂から絵馬堂(休憩できるベンチ)を挟み、すぐ南に位置する場所にあるのが「相合坂(あいおいざか)」です。
縁切り坂とは相反して、縁を繋げたり深めることにご利益があるとされています。

相合坂は文字通り相性を確認できる坂。南側と北側の2本の階段があり、高津宮を頂点として伸びるこの坂は、男女がそれぞれに別れて登ります。

同時に登り始めて登頂するタイミングが二人同じであれば、相性がよいといわれています。
関係を深めたい間柄や、恋人として縁を深めていきたいと考えている人が、相手を連れてきてこの坂から参拝する人もいるとか。

また、今相手がいなくても、良縁を祈願しながら登ることで相性の良い相手が現れるというご利益があるともいわれています。
高津宮は今でも良縁祈願で有名なパワースポットで、多くの人が訪れています。

高津宮内の摂社

写真たっぷりで摂社を撮りました。

高倉稲荷神社

高津宮5
高倉稲荷神社の御祭神は、宇賀御魂神(わかのみたまのかみ)という稲荷神です。

稲荷という言葉は「稲が成る」という事から、穀物豊作、五穀豊穣、商売繁盛、芸能のご利益があると言われています。

高倉稲荷神社の拝殿内には占いスペースがあり、主に女性に人気があります。

比売古曾神社(ひめこそじんじゃ)

高津宮6
高津宮の境内の末社になる比売古曾神社は、本殿の左側に鎮座しています。

御祭神「下照姫命(したてるひめのみこと)」は別名「天探女(あまのさぐめ)」とも呼ばれており、上町の地に降り立った時にこのあたりを「高津」と称したという話が残されています。

比売古曾神社は高津宮が移される前からこの地にあったとされ、子授け・子育てのご利益があることから、この高津の地で繁栄を願う地元の人達から厚い信仰を集めています。

高津宮の縁結びの神社で良縁祈願&出会いのイベント

高津宮7

イベントが神社ならではの内容が盛りだくさん

高津宮は由緒正しい大阪の縁結びの神社でそのご利益があることから、婚活イベントとして「縁結びパーティー」や「縁結び無料セミナー」などが実施されています。

神社ならではの婚活イベントは特徴的で、一般的な婚活パーティや出会いイベントとは少し違った部分が人気の理由。

高津宮の縁結びイベントでは、宮司による「本殿での縁結び祈願」や、「大人のための神社遊び体験(ゲーム)」などを通じて、楽しみながら参加する男女のマッチングを行います。

神社境内で気ままにはしゃぐことができるのは、貴重な経験になるのではないでしょうか。

意識した人に対して改めて縁を深めたい人がいれば、専用の絵馬に書き込んで提出します。
神社が回収後に、宮司から結ばれるカップルの発表が行われます。
イベントを担当する方は「結果はどうあれ、良縁が巡ってくるまで諦めないことが大切」と話されます。

参加者の年齢層や希望する人数は年々広がりを見せており、申し込み後は必ず参加するなど責任や決まり事の面では大人の付き合い方をすることが求められる場です。

参加は必ず事前の申し込みが必要となるため、ホームページで参加事項を確認してから申し込みましょう。

高津宮の御朱印

高津宮の御朱印

高津宮の御朱印は書置きではなく、社務所に申し出ると書いてもらえます。

神津宮の社名と、「浪速神津宮」の印が捺されています。

ご縁以外にも、上方文化を楽しめる高津宮

上方カルチャーの中心となる歴史的展示品を閲覧

古くから上方文化の中心に鎮座する高津宮。殿内には様々な展示物が設置されていたり、落語や文楽の他、デッサン会や作品展など幅広いイベントが催され賑わいを見せています。
中でも、拝殿内の展示物は参拝のついでに閲覧が可能なので日を選びません。

拝殿内での展示物を一部ご紹介します。

■日本国歌の「君が代」で読まれている岐阜県春日産の「さざれ石」

高津宮8

■江戸時代頃の上本町周辺地図

高津宮9

■昭和44年、大相撲大阪場所 優勝者大関「琴櫻」、他5名の力士の手形とサイン

高津宮10

■歌舞伎役者 「中村 鴈治郎」、「片岡愛之助」の成功祈願参拝記念のサイン・写真

高津宮11

■2万年前の神代杉

高津宮12

◾️本殿内に奉懸されていた「三十六歌仙」肖像画、冊子見本

高津宮13

まるで歴史博物館に来たような気分になる展示物の一つひとつは、高津宮の抱える歴史を物語っています。

高津宮が舞台となっている落語・文楽

高津宮14
高津宮は上方文化の中心として、かつてより大阪の町人の娯楽であった落語や文楽の物語の舞台となることがしばしばありました。
現代でもその語り部として有名な落語家や役者が公演成功祈願にも訪れています。

上方落語「高津の富くじ」

上方落語で有名な「高津の富くじ」は、タイトルどおり高津宮が舞台となっています。
高津の富亭「くろもん寄席」を盛り上げた故・桂文枝師匠を忍んで記念碑も建設され、落語ファンであれば一度は訪れたいと思うもの。

落語では、高津の富の他にも「高倉狐」や「崇徳院」の舞台としても知られます。

日本の伝統芸能「文楽」の舞台にも

一体のカラクリ人形を三人がかりで動かす文楽は、江戸時代には大阪で熱狂的な娯楽の一つでした。
人形浄瑠璃「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」では、高津宮で行われている宵宮を背景にしたシーンがあります。
終盤の舅殺しのシーンでは高津宮の祭りのだんじり囃子を背景に、緊迫したシーンが表現されています。

高津宮では、休日に落語や文楽のイベントが無料で催されることもあり、地元の人から落語好きな人まで多くの人が楽しんでいます。

知っておきたい高津宮の主祭神「仁徳天皇」の魅力

高津宮15

最後に、高津宮に祀られている主祭神をご紹介します。高津宮に祀られている神様は、仁徳天皇)(十六代天皇)を始めとする一族です。

仁徳天皇の他には、その父である応神天皇、祖父である仲哀天皇、祖母である神功皇后、長子である履中天皇、葦姫皇后が祀られています。

「私は天皇にはなりません」譲り合いの果ての即位

仁徳天皇は元の名前は日本書紀「大顦鷯尊(おおさきざきのみこと)」(古事記では大雀尊)といいました。

大顦鷯尊は幼少から頭が良く容姿端麗で、成長と共に心の広さも成長し、行った治政は仁政(民衆に恵みのある政治のこと)だと言われています。

応神天皇(父帝)の第四子として生まれ、兄は「大山守皇子(おおやまもりのみこ)」異母弟に「菟道雅郎子(うじのわきいらつこ)」が居ました。

後継者に悩む父・応神天皇

応神天皇40年1月8日、大顦鷯尊(後の仁徳天皇)は兄の大山守皇子と共に父である応神天皇に呼び出され、こう聞かれました。

「長子(長男)の子と、年少の子であれば、どちらが愛おしく感じるか」

兄の大山守皇子は「それはもちろん長子でございます!」と即答します。
一方で大顦鷯尊は父が末子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を大変可愛がっていたことを知っていた為、こう答えました。

「年少の子というのは、他の兄弟とは違い未熟さが目立つものでございます。未熟ゆえに心配事も多いですが、その分愛しさを感じるものだと思います。」

こうして応神天皇41年1月24日、兄の大山守皇子は山川林野を掌握することを任命され、年少の息子菟道雅郎子(うじのわきいらつこ)は皇太子となり、大顦鷯尊はその補佐に任命され国事を行うことになりました。

そして翌年の応神天皇41年1月8日、父帝である応神天皇が崩御しました。

次期天皇の即位まで、空白期間は3年間

高津宮16
弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が天皇に即位することになりましたが、それを良く思っていなかった兄の大山守皇子は弟の即位を退け、皇位を奪い取るために軍勢を固めていました。

大顦鷯尊(おおさきざきのみこと)は、兄と弟の関係が悪くなる中で板挟みとなっていましたが、弟の支援を続け、群をなして攻めてくる兄を罠にはめ、川へ落とし咎めて討伐したのです。

そしてある日、弟の菟道雅郎子は、大顦鷯尊に言いました。
「天の下で民を治める者は、受け入れる心は民衆を覆う天のように、そして地のような広い心を持つべきです。容姿も優れ、徳もあるあなたを置いて私は天皇にはなれません」

こういうと弟である皇太子・菟道雅郎子は天皇の座につくことを拒否したのです。

大顦鷯尊はあくまで弟が即位し、その補佐として尽力するつもりでいたため、天皇の座の譲り合いが始まり、それは3年間にも及んだということです。

天皇不在の間各所から貢物が届きますが、届け先も譲り合うため行方が定まず、船頭たちは海上を右往左往したそうです。
このようなことが続き、多くの人々を巻き込んだ譲り合いに弟は心をいため、ついには自ら命を立ってしまいました。

ついに天皇に即位、応仁天皇が始めたのは「倹約」

高津宮17
弟である皇太子・菟道雅郎子が他界したことにより、大顦鷯尊が天皇に即位、仁徳天皇となりました。

即位元年、応仁天皇は都を大和国から難波の高津宮に移し、皇后を迎え新しい生活がはじまりましたが、即位から4年立った時のことです。

日が傾き始めた頃、城から見渡す風景から仁徳天皇はあることに気がつきます。

「この辺りには民衆が住んでいるはずだが、米を炊く時間なのに竃から煙が上がっていない」

民衆たちは収穫物を年貢として納めていた為、自分たちに食べ物が残らず飢えに苦しんでいました。
応仁天皇は使いの者に城の備蓄を訊ね、3年分の蓄えがある事を知りました。

それから3年間、民衆の課税の労役制度を取り下げました。
自身を含め城に住む者にも倹約を掲げ、宮殿では屋根の茅が破損しても修理せず、雨が降れば城中雨漏りしていたそうです。

服や靴も破れるまで着続けました。皇后はせっかく天皇の元に嫁いだにも関わらず、民衆と変わらない厳しい生活を強いられ、「なぜ天皇の身である私たちが倹約に努めなければならないのですか」とよく嘆いたそうです。

この生活は宣言通り3年間続きました。
即位から7年、城から見下ろした風景には竃から米を炊いている煙が無数に上がっていました。

「私は富んだ。なんて素晴らしいことだろう。地の民が富まなければ、天子である私たちは富んだことにはならないのだ。」

民に活力が戻ったことで年貢制度を解禁しましたが、民衆の多くは都にとどまり、反乱が起きることもなく城の改築や作物の収穫で年貢を収めました。

民衆の生活を省みる天皇はこれまでにいません。仁徳天皇は民衆たちからは聖帝とよばれることもありました。

その後も仁徳天皇は平野の開発や橋の増築、河川の堤防建設、広大な田の増設、渡来人との外交などで才能を発揮し、人々の暮らしは住みやすいものになりました。

高津宮のまとめ

高津宮18
仁徳天皇の没後は大阪府の堺市にある「仁徳天皇遼古墳」に納められたとされています。
日本最大の前方後円墳として歴史の教科書などでもよく見られるその規模は、エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵に並び、世界三大墳墓の一つです。

人生の期間において、人のために尽くすこと、耐え忍ぶことができるのは簡単なことではありません。

仁徳天皇からのご利益は、政治面で行った恋愛だけでない「人を想う気持ち」が良縁に繋がるということではないでしょうか。
大切にしたい人をつれて参拝し、共に上方文化を堪能できるのが魅力の高津宮でした。

Sponsored link